商いを創造し続ける
繊研新聞2018年5月14日・21日・28日付掲載
繊研新聞(https://senken.co.jp/ )2018年5月14日付掲載
創業から今年で 116 年を迎えた総合卸商社、エトワール海渡はファッション衣料から雑貨、食品に至るまで、扱い品目 70 万 SKU(在庫最小管理単位)の幅広い商材を揃える。現在、約 3500 社から調達した商品を小売店約 2 万店に供給。創業以来「良い物をできるだけ安く、必要な物を、必要な時に、必要な数で提供する」の精神を受け継ぐ。現金問屋化、セルフサービス販売、会員登録制などの新業態を開拓し、近年では卸 ECサイト「エトネット」や、仕入れのプラットフォーム「イッコカラ」を設立するなど、常に時代に即した新しい商いを創造し続けている。
1902年に創業者、海渡由楠(よしぐす)が玉類や貴金属アクセサリーを中心とした小間物卸問屋「海渡商店」を東京市浅草区森田町(現在の東京都台東区柳橋)に開業。かんざしなどに使用するサンゴ玉や模造玉などの玉類を下町の職人から仕入れ、全国に売りさばいていた。業績は順調に伸び、開業4年後には日本橋区(現中央区)米沢町に移転する。19年に由楠は長男義一(よしかず)に社業一切を継承。25歳の2代目経営者は店を受け継ぐと同時に、従来の扱い品目に雑貨用品を加えた。せっけん容器や湯おけ、くしなどセルロイド製品の市場成長に注目。義一は「雑貨はマージン率は小さいが消費財であるため大量に販売できる。回転率も高い」と見て拡充した。第1次世界大戦終結後の世界不況の最中、日本でも倒産する業者が相次いだが、海渡商店は不況に強い雑貨商品を手広く扱い、逆に業績を伸ばした。 23年9月、関東大震災によって東京が焼け野原となった。海渡商店も被災し店は全壊した。しかし義一は「これから復興に向けた大きな需要が起こるに違いない」と、翌月には間口5.5メートル、奥行き9メートルの仮設店舗を立ち上げた。仕入れは自ら大阪へ赴いた。取引先メーカーは「海渡さんなら支払いはいつでも結構」と好意的だった。この時、義一は「信用こそ商売の財産」を肌身に感じた。仕入れた商品は衣料品を中心に現金で飛ぶように売れた。震災後の再建は順 調だった。 40年代初頭には太平洋戦争の戦雲が広がるなか、奢侈品(しゃしひん)等製造販売制限規制法など物資統制、価格統制が施行され、日本橋の問屋街も転廃業が相次いだ。しかし海渡商店は統制対象外であった小間物、袋物、文房具などを商材に現金販売の売り場を新設、周辺のビルを買収するなどして事業拡大に出た。現金販売はマージン率が低い代わりに商品回転率が良い。「小規模の小間物店が、その日に売れる分だけを仕入れて、売れればまた買いに来る。当用買いで安定する現金取引が良策」と見た義一は、これ以降、現金卸業態を主力事業と位置付けた。 その後、深刻化する戦禍により 44年には一時事業閉鎖するも、45年の終戦1カ月後には営業を再開。戦災を受けていない京都で化粧はけやくしを仕入れるなどして店頭に並べた。終戦直後の物資不足の時代、インフレが加速するなかにあっても、正札販売の適正価格で商品を提供する販売手法が評判を呼び、全国から多くの客が押し寄せた。早く立ち上がった者が勝つ。信用が第一。関東大震災当時の経験が、大戦後の復興に生かされた。
48年に株式会社海渡へと改組。それと同時に、義一は当時26歳の長男一郎に社長の座を譲った。海渡は現金卸問屋の先駆者として新しい制度を相次いで導入した。 高度経済成長期に入る 50 年代、買い付けに訪れる来店者の混雑を緩和することが経営課題の重点だった。52 年には日本橋横山町の 5 階建てビルを買収し売り場を新たに設置。しかし、新規客は増える一方で、約 300 人の従業員が客一人ひとりに対応していたのでは、来客全てへの接客は到底できない状況だった。そこで、社長の一郎は、当時まだ日本では知られていなかった「セルフサービス」の販売手法を卸売りの現場に採用した。売り場の入り口にかごを積み上げておき、来客者はそのかごをもって自由に商品を選択して仕入れる形態だ。 セルフサービスの言葉さえも普及していない時代に、当初は客から「品物を客に取らせるなど、なんと横着な商売だ」などの苦情が出た。しかし、一郎は「良質な商品を最低の利益で正札をつけて販売している。これを来場客が自由に選択ができるように陳列し、スムーズに短い時間で購買できる」などと説明した。これが逆に好評を得るようになった。同業者のなかでも導入するところが現れた。 業容が拡大するなか、59 年に一郎が心臓病により他界。社業にとって大きな打撃であった。義一は再び社長に就いた。60年ごろ、取引先は約1万店に及んでいた。その結果、一般消費者も紛れ込み卸値で買うケースが多発し、取引先の小売店からの苦情が増えていた。 そこで、義一は出入りする客をチェックする「登録優遇制度」を導入した。取引先の小売店の登録制度で業界初の施策だった。取引を希望する小売店に自社の調査員を派遣。店が実際に申請場所で商売をしているか確認するなどして審査し、合格したところだけに登録優待証を発行した。多大な費用と人手が掛かったが、新規登録店が大きく伸びて約3万5000店にまで増えていった。
1961年 馬喰町問屋街最大の卸店舗の本館がオープン
繊研新聞(https://senken.co.jp/ )2018年5月21日付掲載
61年11月、エトワール海渡本館ビルが完工した。地下2階、地上9階建ての馬喰町問屋街最大の卸店舗。本館開業に合わせて、日本橋周辺に分散していた三つの売り場は全て閉鎖して本館ビルに集約し、総合問屋の“ワンストップ・ショッピング化”を確立した。館内にはエレベーター、エスカレーターを完備し、会計場は、そろばんではなくレジシステム「ナショナル・キャッシュ・レジスター」を導入。これら最新の設備を誇る館には当時、仕入れ客の長蛇の列ができた。開店以降“大入り満員”が続き、12月に入ってからの日商は1000万円大台を突破。日本経済は岩戸景気に沸き、高度経済成長の真っただ中にあった。 この時、経営陣は海渡義一社長の下、長男で前社長の一郎死去を受け、東京慈恵医科大卒業後、同大医局に勤務し医学博士号取得後に海渡に転身した三男の五郎(後の5代目社長)が常務として人事制度及び社 員教育やシステム関連を担った。長女の二美子(ふみこ)(後の 6 代目社長)は専務として販売の陣頭指揮を執った。
1970年 女子総合宿舎を設立
海渡は経営の近代化を進めるなかで、高卒女子の採用を積極的に行った。当時、卸問屋の販売員は中卒女子がほとんどであった。しかし、「商業の分野でも機械化が至上命題。事務の合理化も含めて社員の教育水準の向上が必要」と義一は考えた。本館開業の前後には多数女子寮を建設。63年には、空き店舗となっていた第3ビルを改装してカルチャーセンター「エトワール学園」を開設した。月曜日から日曜日まで毎日、午後6時から9時の間にカリキュラムが組まれ、華道(池之坊、草月流)や茶道(表千家)のほか、書道、スタイル画、英会話、料理などの十数の講座を揃えて社員の教養面の成長に力を入れた。 このような人材育成を背景に、60年代後半には20人の課長のうち5割、40人の係長のうち7割を女性社員が占めるまでになった。70年には10階建て総面積9500平方メートルの女子総合宿舎「エトワール会館」を完成。冷暖房設備を完備し、建設費だけで10億円を投じた。これら福利厚生施策への投資が全国から優秀な人材を集めることになった。 海渡は74年に、他業界でも実用化の実績がほとんどなかったPOS(販売時点情報管理)システムを導入した。当時、同社の取扱商品は衣料品を中心に雑貨・インテリアなど約40万点にも上り、その8割がオリジナル商品だった。流行の変化が激しい商材を扱う上で、海渡五郎常務は「数千件の取引先に新商材の生産を発注したり、生産の打ち切りの指示を出すなどメーカー機能の維持、強化を行うためにPOSは不可欠」とみていた。海渡は、沖電気工業と富士通の両社とPOSターミナルを共同開発。これはバーコードと磁気コードの併用方式を採用したもので、百万点分の商品情報半日から1日後に単品管理が可能なシステムを構築した。
1977年 企業内保育所「エトワール保育園」を開設
60年代初頭、女子社員が急速に増え、従業員1200人の内、女子社員が7割の850人を占めた。職場の安全衛生制度の充実、特に“女性が健康に働ける職場作り”が焦眉(しょうび)の課題となった。海渡五郎常務の肝入りで、62年に地域医療施設、総合診療所日本橋クリニックを開設。大学病院並みの医療設備を整え、社員だけでなく馬喰・横山町かいわいでも「面倒見の良い診療所」として親しまれており、現在も開業している。 ファッション商品を扱う海渡にとって女性社員の感性は不可欠。結婚し子供が生まれる年代の優秀な中堅社員の退職は企業にとって痛手だ。既婚女性社員の定着率を高める施策も喫緊の課題となっていた。この問題を解決するために、社内保育所「エトワール保育園」を77年に開設。日本橋クリニックと合わせて、“赤ちゃん連れで出勤、診療所も併設”は当時、業界を超えて話題となった。ちなみに、現社長の早川謹之助は開園初年度に入園している。 海渡五郎が5代目社長に就任した85年以降、多様化する仕入れ客のニーズに応えるために売り場を広げる必要があった。そこで、86年にブライダル関連のドレスから家具、引出物までを揃えるマリエ館、アクセサリー・宝飾のジュエリー館、90年には包装資材を揃えるベルセゾン館を相次いでオープン。馬喰町内でワンストップで仕入れる利便性を実現した。03年は各館の売り場構成をさらにリニューアル。買い回りを重視して、卸4館をファッション館、リビング館、ジュエリー館、ホームデコ館に再編し市場の変化に合わせた。 海渡商店以来、長年にわたって経営に関わってきた二美子が03年に社長就任。「咲いた花の後に、常に蕾(つぼみ)をつけよ」を座右の銘にして、業容が拡大するなか社内全体の各部署の人材育成に目を配った。
繊研新聞(https://senken.co.jp/ )2018年5月28日付掲載
11年6月、海渡二美子の後を受けて、エトワール海渡7代目社長に就任した早川謹之助は当時33歳だった。90年代以降、国内のファッション市場は縮小し続け、同社の主要取引先である地域密着型の専門店においても厳しい状況が続いていた。就任の数力月前には東日本大震災が発生し、国全体が先行きに不安を抱えていた。そのなかにあって、早川謹之助は「04年に海渡に入社以来、祖母である二美子社長が常に売り場の前線に立っている姿を見てきた。全国の多くの小売店が日々の商売をするにあたって、当社が必要とされ、絶対的な信頼性を得ていることに確信があった。この会社をしっかりと残さなければならない」と社長に就くことを決意した。 早川は「海渡のビジネス形態としての特性に魅力を感じていた」と言う。同社は現金卸業態を戦後から本格的に始め、60年代以降には馬喰横山地域の問屋街で最大の本館設立に象徴されるように“総合化”を進めてきた。そこから50年以上経ているにもかかわらず「現在も当社に対する市場ニーズがあり、全国のバイヤーから支持されている。先逹の方々が事業として本質的なものを積み上げてきたからだ」と言う。同社はその礎の上に更に進化した卸ビジネスの構築に取り組んでいる。
「モノ売るユメ、ささえる。」がコーポレートスローガン
エトワール海渡は EC を取り入れた卸販売の多チャネル化を拡充し、バイイングの利便性を高めてきた。 06年にECサイトを開設。オンラインによる卸販売に踏み出した。12年に新商品情報を毎日更新するECサイトの機能を拡充した「エトネット」をスタート。スマートフォンなどのモバイルを使って、品番別にリアルタイムで在庫確認ができるシステムも導入した。「午前中に発注すれば、午後には商品を発送する。いつでも、どこでも発注できる」スピーディーな取引を可能にする卸システムを構築した。最近では台湾、香港、韓国、中国などアジア地域を中心とした海外からのエトネットを通じた買い付け比率が高まっている。バッグなどのファッション雑貨や日本製のベビー用品、実用的なキッチン用品などに人気が集中しており、年々その市場規模を広げている。 16年には、新規のEC卸業態「イッコカラ」事業を立ち上げた。仕入れ先の各種メーカーが発行する商品カタログをもとに、全国の専門店からの商品発注をエトワール海渡がECサイトを窓口に一括して受けるもの。それらの注文をメーカー別にまとめて、週単位で発注して海渡の持つ物流センター(川崎市)に集約し、小売店舗別に仕分けて発送する。メーカー側にとっては、売り先の小売店に対する与信管理をエトワール海渡を通じて行えるメリットがある。
1980年代から行っている小売店舗サポート活動で 卸先との信頼を深める
専門性を発揮した MD 力にも磨きをかけてきた。10年には本館の催事場で行う展示会「イー・ファッショントレンド」を開始した。アパレルを中心としたファッション商材をブランドミックスで、シーズンごとに展示して来客者から受注するもの。6カ月先の商品企画を打ち出して、定期的に受注状況をチェックし、品番ごとに在庫リスクの強弱を付ける。 MD強化に向けた組織改革も行った。アパレルや服飾雑貨、雑貨のアイテムごとの組織を横串で見渡すMD室がリー ドして、時々の話題性のあるファッションやスタイリングのテーマを提示。各アイテムからテーマに沿った商材を提案 することで、素早く柔軟に市場対応ができる組織を形成している。例えば、MDチームが「上野動物園でパンダが生ま れた。パンダの売り場を構成しよう」と発案すれば、1週間後には売り場にパンダアイテムを集積したコーナーができる。 専門性の高い商材を、統一したテーマに沿って集積する体制を整えている。 15年以降、エトワール海渡は最終消費者を対象にした、個性的な直営店を相次いで出店している。鎌倉で猫雑貨を扱う「鎌倉ねこサロン」、トラベルパンツの自社ブランド「ピタッツ」を中心としたショップ「オラーチェ」、イタリア高級ニットブランド「リオラ」、小ロットのクリエイター商品を扱う「モノティアム」、ライフスタイル提案型セレクトショップ「オティウム」など。これらは全て、次世代の卸業態の機能を追求することを目的にしている。絞り込んだ特色あるマーケットを深めることで、各分野の本質的なニーズをつかむことが狙い。「新しい卸業態の開発に役立つと確信している。総合卸として、単なる何でも屋では卸し先に満足してもらえない。アイテム毎の専門性に特化しながら、専門問屋に負けない総合問屋でないといけない」(早川謹之助)としている。 様々な新しいビジネス手法を打ち出しながらも「人とのつながりが大事、信用が第一」とする同社の姿勢に変わりはない。 80 年代から継続して進める小売店舗サポート活動では、社員が卸し先の店を訪問して、その店に合った品揃えをアドバイスする。得意先の小売店からは「自店のことを理解してもらったうえで、多様な商品を紹介してくれる海渡のスタッフを頼りにしている」「実際に商品を手に取って仕入れることのできるスタイルが当店には合っている」などの声が多い。早川社長は「ECビジネスは今後も拡充していくが、あくまで補完的なものと考える。ECの利用を促進するために説明するのも社員が行う。当社の実店舗に立つ人材力を発揮した卸売りを軸にしながら。商品との出会いの場を提供するのが 第一の仕事」と言い切る。 エトワール海渡は総合卸企業として「モノ売るユメ、ささえる。」をコーポレートスローガンに掲げる。地域密着型の個店専門店の品揃えを支える総合現金卸として、専門性に特化した多様な商品をこれからも供給し続ける。